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幻の酒の幻




 友人に「飲みに来いよ」と言われてアパートに遊びに行った。
 仲間うちでも貧乏で鳴らしている奴なのに、そんなことを言い出すとは珍しい。どんな安酒が出てくるのかと思っていたら。

 なんと、空のペットボトルに水を入れて出してきやがった。

「これを酒と思って飲むわけだ」
「いくらなんでもそりゃないだろ」
「まあ試してみろよ。流行りの本格焼酎だぜ!」
 流行りの本格焼酎をコップになみなみと入れて出す奴がいるか、と思いつつ、不承不承受け取って口に含む。

 すると芋焼酎独特の芳香が、口いっぱいにふわりと広がった。

「あれ……?」
「な? なかなかいけるもんだろ?」
 彼は自分も注いであおりながら得意げに言った。
「とにかく、酒の味を思い出しながら飲むのがコツなんだ。俺は前に一回だけすごく高い芋焼酎を飲んだことがあるんだが、それを思い出してるんだ」
 というか、彼はそうだとしても自分はこんな芋焼酎は飲んだことがない。彼が蛇口から普通にカルキ臭い水道水をペットボトルに詰めるのを見ていたし、全然信じていなかったのだが……。

 まあこれで飲んだ気分になれるのなら、それはそれでいいかもしれない。
 頭を切り替えて、疑似酒盛りを楽しむことにした。

 芋焼酎がなくなると、友人は再び同じペットボトルに水を汲んできて、「じゃあこれは日本酒」と言った。
 だがこちらは旨い酒というほどではなかった。
 飲み慣れた、安い辛口の日本酒の味だ。

 そして翌日、きっちり二日酔いになった。それに明らかに全身が酒臭い。

 やはり、あの水は本当に酒になっていたのだ。

 実は、友人には黙っていたが、途中で気付いたことがある。彼がトイレに行った時に、例のペットボトルから手酌で注いだら、ただの水だったのだ。
 恐らく、自己催眠などではなく、彼の強烈な思い込みが水を酒に変質させていたのだろう。
 日本酒が安物だったのは、彼が高級な酒を飲んだことがなかったからに違いない。

 とは言え、友人に真実を言って、この貴重な能力が喪われてしまってはもったいない。
 今度飲み屋で少し高い酒をおごって、奴に味を憶えさせておこう。