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ミスタ・楊のとある事情




 暗殺の依頼を受けて、依頼主の組織のエージェントと接触することになった。
 約束の場所――ヨーロッパのとある空港に現われたのは、東洋系の小柄な女性だった。ストレートの艶やかな黒髪を流したなかなかの美女だ。
 彼女はつかつかと近寄ってきて言った。

「ミスタ・楊?」
「そうだが、きみは?」
「エージェントの沙羅です」
 彼女は切れ長の怜悧そうな瞳でこちらを探るように見た。少し考えてから付け足す。

「沙悟浄の沙に、羅刹の羅です」

「……」
 こちらの沈黙をどう受け取ったのか、彼女はてきぱきと鞄から書類を出す。まったく変わらない事務的な口調で言った。
「これがターゲットの海聖法師のデータです」
 私は書類を受け取ってざっと眺めた。横で、彼女が説明を続ける。
「コードネーム・びしょびしょは同志でしたが、組織を裏切りました。裏切りは死で償われねばなりません」
「……びしょびしょ?」
 彼女は淡々と言った。
「彼は僧侶のくせに喰い道楽でした。美食家のビショップなので、びしょびしょ」
「……失礼だが、あなたがたは何の組織なのかね?」

「世界の転覆を企む会ですわ」

 応えた彼女の瞳にきらりと光が宿る。刃物のような鋭い微笑みを浮かべて言った。
「偽装のために、省略して貝の天婦羅会として日本の宗教法人に登録しております。せ
かいのてんぷくをたくかい。お判りになりますか?」
「あー……」

 その後、私はターゲットの警備が厳重すぎることを理由に丁重に仕事を断り、彼女と別れた。報酬に魅力はあったが、この組織と関わることに言い知れぬ不安を感じたのだ。

 数年後に所用で日本を訪れた際、たまたま彼女――エージェント沙羅を見かけた。

 彼女は街宣車の上でにこやかに笑って手を振り、マイクで隣りに立つ男について何事か演説していた。
 ホテルで聞いたところによると、貝の天婦羅会の“教祖”グルテンこと導師(グル)・天草氏が国政選挙に打って出て、その選挙活動ということらしい。車にはなんとびしょびしょ氏の姿まであった。

 そして私が仕事を終えて出国する頃には、開票は終わっていた。貝の天婦羅会は、新聞を見ても得票すら判らない泡沫候補として敗れたようだ。

 世界どころか自国の転覆すらおぼつかない。
 私は彼等の仕事を受けなくてよかったと納得して、新聞を捨てて空港に向かった。