トップ - もくじ - No.141〜160 - 個別の話157


ある午後の話




 アパートの郵便受けに突っ込まれていたチラシにつられて、なんとなく自己啓発セミナーに参加してみた。
 さして面白くもない講演会の最後に、講師が厳かな調子で促した。

「あなたたちの中には、自分でも気付いていない真実が眠っているのです。さあ、己の裡なる声に耳を傾けましょう……」

 しばらく瞑想するうちに、会場がざわめきに包まれ始める。
「ああ……私、蝶だったのね……」
「そうか、僕は岩なんだ……」
「俺の野生が目覚める……」
「水を、水をっ!」

 気になって目を開くと、「蝶……蝶……」と呟きながらふらふらと歩く女性が視界に入った。見回せば、雄たけびをあげたり、うずくまったきり動かなかったり、会場をうろついていたりする者がたくさんいる。自分と同じで戸惑った様子の者も少しいたが、ほとんどは“目覚めた”ようだ。

 やがてぱんと乾いた音が響き、同時にみんなはっと我に返った。かしわ手を打った講師は、重々しく一つ頷いて言った。

「今発見した真実を忘れないでください。あなたたちが迷った時には、裡なる自分が導いてくれることもあるでしょう。今日は発見できなかったかたも、諦めることはありません。いずれ声が聴こえるかもしれませんから……」

 なんだか、ただの集団催眠のような気もするが……。
 会場を出る時、隣の男性に「どんな感じでしたか?」と訊いてみた。
 野生が目覚めて雄たけびをあげていた男性は、低い唸り声で応えた。

「すぐにでも山に行くよ。俺の居るべき場所はここじゃない……」

 意味が判らず首を傾げると、男性は無言で袖を捲り上げた。先刻より幾分太くなったように見える腕には、黒い剛毛がびっしりと生えていた。彼はロビーに出ると、そのまま足早に立ち去っていった。背中を丸めた小山のような身体は、なんとなく熊を思わせた。
 そしてロビーにはどこから入り込んだのか、綺麗なアゲハ蝶も舞っていた。自動ドアが開くと一緒に外に出て、ひらひらと花壇へと飛び去った。

 まさかな、と苦笑して一歩外に出ると、傾いた太陽がやけに眩しかった。それほど強い日差しではないのに、肌が灼かれてちりちりと痛む。
 その上、日差しを避けて駅に向かううちにひどい喉の渇きにも悩まされ始めた。自販機を探して周囲を見渡したが、先刻までいたはずのセミナー参加者の姿はほとんどない。ここに来る交通手段は、タクシーか電車しかないはずだが……。

 それにしても喉が渇いた。

 どうしてここには誰もいないのだろう。

 こんな時は、子供か若い女の瑞々しい動脈血が一番旨いのに――。